つらつらと不安と愚痴と

石見国にやってきて1年が経ってしまいました。

当初の予定では半年間程度だったのに、発注者の都合などいろいろな事が重なり、未だに終わりが見えません。
当初の契約通りの報酬を頂けているので、延期になるのは構わないのですが、その間に断らなければいけない仕事も多々ありました。
こちらとしては、今のプロジェクトから途中で抜けるというわけにもいかず、別のお客様との約束を反故にしたと言うわけではないのですが(事情の説明とお詫びはしているけれど)、先方がどう思われているのかは、実際わかりません。

先々に響いてこなければいいのですが。

そんなこんなで、先の予定を立てられない状況になってますが、いつまでもこの仕事が続くわけではないので、動くところは動いておかないと、おまんまの食いっぱぐれになってしまいますし。

非常に悩ましいところではあります。

以前よりは自由にやれる身分になり、自分が稼働しただけの収入が丸々入ってくるようになったのはいいのだけれど、全ての責任がのし掛かってます。
愛だ正義だお金に換えられない大切なものがあると言うけれど、お金ないと何もできないし、何も守れないんだよ。

身も蓋もないですが・・・。

やはり、先々の事を考えた時に、何が本当に必要かと考えると、結論はそこに行き着くんですよ。
社会のシステムがそうである以上、それは仕方の無い事であるだろうし、そのために限られた人生という時間を切り売りして生きて行くほかに術ははんだよ。

そこそこ働けばいいという身分になれればいいけれど、そんなことは有り得ないしな。

とりあえず、今を生き抜きましょうかね。

おわり

試しタイピングを兼ねて

更新が、すっかり年単位になってしまっている、ブログです。

ここで残っている、一番古いログから10年です。

10年ですよ!
それ以前は、一度ログを消失していまっているので、「銀桃見聞録」をいつ頃から開始したかは、覚えてはいないのですけれど。
よく、十年一昔とは言うけれど、それだけの時間が経過した感覚は全くありません。
気がつけば・・・ですね。

過去の書き込みを振り返り、読み直したりはしていませんが、枕に顔をおしつけて、足をバタバタさせないといけないような事を、沢山書いているんじゃないかということは、想像に難くありませんね。

これから先、ここをどうするかは決め手はいませんが、「継続は力なり」という諺とは、正反対の管理方向にあることは、確かだと思います。

開設した頃に比べ、メジャーなSNSが沢山運営されていますし、日々の事は、そこでブツブツやるばかりになってしまってますし。

何にせよ、ここは独自ドメインとレンタルサーバー上で運用しているので、よっぽどの事が無い限り、放置するにしても、無くなることはないんじゃないかなぁとは思っています。

時間は確実に流れていた

石見の国の滞在が9ヶ月目に。

行こう行こうと思いつつ、バタバタするばかりで、なかなか行動に移せなかった、伯耆国米子市での、懐かしい面々との飲み会。
やっと実行できた。

集まった人数は少なかったが、まぁ、いつも通りなのではあるが。
何年経っても、何十年経っても、酒を酌み交わしながら、同じ話を繰り返すばかり。

月日の移り変わりと、それぞれの生きてきた道によって、考え方や意見の食い違いが出来てしまう事は仕方の無い事である。

みんなが大人になったのか、自分がいつまでもガキのままなのか。
懐かしさ、楽しさの中に、少しだけ寂しさを感じながら、飲み明かしてきた。

滞在期間の終わるまでに、もう一度、今度はゆっくりと訪れてみようか。

 

軍艦那珂忠魂碑

出張で来ている大洗町には、大洗磯前神社が鎮座しています。
その境内には、大日本帝国海軍軽巡洋艦「那珂」の忠魂碑があります。

大洗磯前神社にある軍艦「那珂」忠魂碑
軍艦那珂忠魂碑
那珂川の畔に在るこの神社に、一際大きな忠魂碑が佇んでいました。

那珂艦歴

軍艦那珂艦歴
大正14. 3.24 進水
14.11.30 竣工 呉鎮守府所轄トシテ艦籍ニ入ル
14.12. 5 第一艦隊第三戦隊編入 南支沿岸台湾方面行動
昭和 4.11.30 第一艦隊第一水雷戦隊編入上海方面ニ行動
7. 1.28 第一次上海事変ニ出動
9.11.15 艦籍ヲ横須賀鎮守府所轄ニ転籍
10.11.15 第二艦隊第二水雷戦隊旗艦トナル
11. 2.26 二二六事件発生 鎮圧ノ爲東京品川沖ニ出動
14.11.25 第二艦隊第四水雷戦隊旗艦トシテ南支方面行動
16.12. 7 太平洋戦争比島部隊トシテ比島ルソン島出撃
16.12.10 ビガン攻略
16.12.22 同島リンガエン湾大上陸作戦支援部隊デ活躍
17. 1. 7 蘭印部隊トシテ出撃 ボルネオタラカン攻略
17. 1.21 ボルネオパリクパパン進撃攻略
17. 2.27 ジャワ島スラバヤ作戦大船団護衛南進中米英蘭艦隊ヲ迎撃 敵艦撃沈大戦果ヲ収メ クラガン上陸作戦ヲ成功セシム
17. 3.26 印度洋上クリスマス島作戦参加攻略
17.12. 8 ジャワ島攻略作戦ノ勲功ニヨリ山本五十六聯合艦隊司令長官ヨリ感謝授与サル
18. 4. 1 第四艦隊第十四戦隊旗艦トナリ南洋トラック島ヲ基地ニ南洋方面作戦 特ニ輸送任務ニ活躍
18.11. 5 上海方面ヨリ ラバウル方面ニ陸軍部隊輸送ス ラバウル港ニ於テ敵機動部隊ト交戦
18.11.25 マーシャル群島ポナペ島クエゼリン島クサイ島ミレ島ニ陸軍部隊輸送
19. 2.17 トラック島ニ来襲敵機動部隊ト応戦
同島南西海域ニ於テ九時間ニ及ブ激烈ナル対空戦闘ノ末 満身創痍 砲ハ飛散 艦首艦橋切断 海中に歿ス
後進交戦魔ノ紅ノ炎ト化シ遂ニ沈没 聯合艦隊ノ一翼ノ使命ヲ果シ輝シイ武勲ヲ残シテ終焉

初詣の余韻の残る境内でしたが、碑の前で英霊に感謝の意を持って鎮魂の祈りを捧げてきました。

宇部護国神社 新春お年玉クイズ

平成27年は宇部護国神社の前進である維新招魂社が創始され150年を迎えます。

宇部護国神社の毎年恒例の維新志士・有名人肖像当てクイズは、それにちなんで福原越後公にまつわる問題になってましたのでメモを。

A:禁門 B:毛利 C:六 D:福原 E:長州
F:俗論 G:維新 H:功山寺 I:吉田 J:二次
K:家老 L:ふくはらえちご M:益田 N:奇兵
O:国司 P:尊 Q:龍護 R:招魂 S:一次
T:靖国 U:元

下記かっこに当てはまるものを上記より選びアルファベットを記入してください。

 福原越後公は、()公と呼びます。
文化十二年(1815)徳山藩主()広鎮の命により永代()福原家を相続し長門国厚狭郷宇部村、一万千三百十四余石の領主()越後元僴となった。
越後公は藩主の股肱の臣の一人として藩主の身代わりとも女房役ともなって藩政府内の頂上に居ながら藩主に忠義をつくし、藩運を賭ける激しい政治的駆け引きの場でも、世の注目を集める華やかな舞台でも常につつましく脇役に身を置いていた。
 元治()年(1864)『()の変』で長州藩の敗北により、幕府が第()次長州征伐を発動した祭、福原越後、()右衛門介、()信濃の三家老は、藩主の命を受け出兵したにも拘わらず、幕府恭順の保守派(()党)によって責任を負わされ、第一次()征伐回避、藩存続の為に、切腹させられ無念の死を遂げた。
しかし、この屈辱に激怒した()王倒幕派、高杉晋作が一ヶ月後、()寺で挙兵し、やがて民衆を集めて組織した()隊や諸隊も参戦し、藩政が倒幕へと動き始め、そして二年後の第()長州征伐に勝利し、明治維新の基が開かれたのである。
この三家老の切腹が、回天維新の大きな要因となったのは確かである。

 深原越後公、元治元年十一月十二日岩国()寺で切腹。
 享年五十歳。

 切腹時の辞世の句
 くるしさは絶ゆるわが身の夕煙 空に立つ名は捨てがてにする

 誇り高き血筋に生まれ永代家老としての越後公には、朝敵、不忠不義という汚名を着せられ切腹する事は無念この上ない事ではあったが、忠義に殉じたことは、せめてもの救いであっただろう。
 寡黙で温厚実直、決断鋭く采配は見事、君主に忠実な名家老として幕末の長州藩政を見事に運営し、領地に於いては、村づくり人づくりに着手し、文武修練道場()館を建設し文武両道の教育に力を注ぎ宇部村発展の為に尽力し、名臣として高く評価され人々に慕われた領主であった。
 また付記すれば、佐甲但馬が藩政府に、楠公祭には殉難者の英霊を従祀することを上申し、此を受け藩政府は、慶応元年(1865)五月十四日許可を下し、その二日後の十六日に萩の椿神社神官青山上総(初代靖国神社宮司)が、越後公の御霊魂を琴崎神社(琴崎八幡宮)に仮合祀し招魂祭を行った。
 以後、下関桜山招魂社での招魂祭、東京招魂社での招魂祭へと戦死者の招魂祭が斎行されていった。
 その経緯を鑑みれば越後公の()祭は、現在の東京()神社の源流であると言えると、『靖国神社の源流』に記されている。