宇部護国神社 新春お年玉クイズ

平成27年は宇部護国神社の前進である維新招魂社が創始され150年を迎えます。

宇部護国神社の毎年恒例の維新志士・有名人肖像当てクイズは、それにちなんで福原越後公にまつわる問題になってましたのでメモを。

A:禁門 B:毛利 C:六 D:福原 E:長州
F:俗論 G:維新 H:功山寺 I:吉田 J:二次
K:家老 L:ふくはらえちご M:益田 N:奇兵
O:国司 P:尊 Q:龍護 R:招魂 S:一次
T:靖国 U:元

下記かっこに当てはまるものを上記より選びアルファベットを記入してください。

 福原越後公は、()公と呼びます。
文化十二年(1815)徳山藩主()広鎮の命により永代()福原家を相続し長門国厚狭郷宇部村、一万千三百十四余石の領主()越後元僴となった。
越後公は藩主の股肱の臣の一人として藩主の身代わりとも女房役ともなって藩政府内の頂上に居ながら藩主に忠義をつくし、藩運を賭ける激しい政治的駆け引きの場でも、世の注目を集める華やかな舞台でも常につつましく脇役に身を置いていた。
 元治()年(1864)『()の変』で長州藩の敗北により、幕府が第()次長州征伐を発動した祭、福原越後、()右衛門介、()信濃の三家老は、藩主の命を受け出兵したにも拘わらず、幕府恭順の保守派(()党)によって責任を負わされ、第一次()征伐回避、藩存続の為に、切腹させられ無念の死を遂げた。
しかし、この屈辱に激怒した()王倒幕派、高杉晋作が一ヶ月後、()寺で挙兵し、やがて民衆を集めて組織した()隊や諸隊も参戦し、藩政が倒幕へと動き始め、そして二年後の第()長州征伐に勝利し、明治維新の基が開かれたのである。
この三家老の切腹が、回天維新の大きな要因となったのは確かである。

 深原越後公、元治元年十一月十二日岩国()寺で切腹。
 享年五十歳。

 切腹時の辞世の句
 くるしさは絶ゆるわが身の夕煙 空に立つ名は捨てがてにする

 誇り高き血筋に生まれ永代家老としての越後公には、朝敵、不忠不義という汚名を着せられ切腹する事は無念この上ない事ではあったが、忠義に殉じたことは、せめてもの救いであっただろう。
 寡黙で温厚実直、決断鋭く采配は見事、君主に忠実な名家老として幕末の長州藩政を見事に運営し、領地に於いては、村づくり人づくりに着手し、文武修練道場()館を建設し文武両道の教育に力を注ぎ宇部村発展の為に尽力し、名臣として高く評価され人々に慕われた領主であった。
 また付記すれば、佐甲但馬が藩政府に、楠公祭には殉難者の英霊を従祀することを上申し、此を受け藩政府は、慶応元年(1865)五月十四日許可を下し、その二日後の十六日に萩の椿神社神官青山上総(初代靖国神社宮司)が、越後公の御霊魂を琴崎神社(琴崎八幡宮)に仮合祀し招魂祭を行った。
 以後、下関桜山招魂社での招魂祭、東京招魂社での招魂祭へと戦死者の招魂祭が斎行されていった。
 その経緯を鑑みれば越後公の()祭は、現在の東京()神社の源流であると言えると、『靖国神社の源流』に記されている。

懐かしさが蘇る〜西宮八幡宮

ひょんな事で懐かしい人と再会したりで。

世の中便利になったもんじゃありますのんた。

 

そういう繋がりで、通っていた小学校近くの神社をご紹介。

宇部市藤山西宮八幡宮

宇部市藤山校区に鎮座する西宮八幡宮。

藤山地区の産土の神として人々を見守っておられます。

ということは、小さいことの悪事を全て見られていたんじゃないか?と、今更ながら反省しつつ恐縮しつつ参拝してまいりました。幸いこれといったバチは当たった記憶もないし、参道でスッ転ぶ事もなかったので一安心。

 

西宮八幡宮御朱印

御朱印頂いてまいりました。

参道の傍らには、明治時代の伊藤内閣、山縣内閣での外務大臣青木周蔵が奉献された、ちしゃの木があります。

ちなみに、藤山小学校のプラタナスも青木周蔵が贈ったものだそうでした・・・全然知らんかった・・。

 

それっちゃ、それいね

何年かぶりに「宇部っちゃ」オフ会。

市役所主体での、身内寄せ集め自画自賛SNSの「うべっちゃ」じゃないですからね。
ネーミングはこっちの「宇部っちゃ」の方が先ですから(笑)

オフ会とは言っても、少数の友人の集まりなんで、特別に企画してどうこうしたわけでもないし、それぞれ近況報告兼ねて、言いたい放題、暴れ放題の時間ってなトコです。

友人を一人誘ってみたかったんだけど、イロイロ忙しそうだし、昼間に作業の邪魔してたりしたんで、また次回誘ってみることにします。

とりあえず、みんな元気そうで何より。

あんまり僕が暴れる事に期待しないで下さい。
危ないネタが、ついついこぼれだしてしまうので・・・(笑)

祭の終わり、終わった祭

今年の宇部新川市まつり終了
5日で終わってんですけどね

真締川の掘削開通の後、水神様である中津瀬神社を奉り、そこを中心に海産物と農産物の物々交換で始まったお祭りですが
最近では、すっかりその様相も変わってしまってます。

商業のお祭りが、すっかりイベント事になって久しい。

お祭りのルーツと伝統を残しつつ、イベントとして開催されるのならまだしも
他所の地方のモノをそのままパクって、取って付けたような後付けの伝説なるものを全面に押し出していては
文化も祭もあったもんじゃないと思うのは、俺だけでしょうかね?

年々、遠のく人々

今年の人出も、多分悲惨な数じゃなかったんでしょうかね。

活性化を叫びながら、何もしようとしない人達

予算を組んで、金だけ渡して丸投げする体質

この街は、悪い方にばかり、変わっていってしまっているようだ。

ちなみに「宇部狐の嫁入り伝説」とは

伝えられる古文書によれば
現在の真締川は江戸の時代は宇部本川と呼ばれ、男山(現在の霜降山)のふもとの
石仏、御作興(ごさっこう)を源とし、常盤の池から発する塩田川や渡内川(わたうちがわ)
の末流と樋の口あたりで合流し、宇部の市街地へと流れ込んでいました。

当時の宇部の地は小高く砂地が横たわり、それ故に水はけが悪く、雨が続くと作物もできず、
無毛上(むげじょう)といって、多くの農民を大変困らせた収穫の出来ない土地でありました。

しかし、ある年だけは大きな川の氾濫もなく、大変な豊作を農民は喜び、真締川の源に位置す
る男山の山麓から頂きにかけて幾つもの光の帯を見かけた者が多く、人々は口々に
「男山の狐が嫁をとった」と言いまわったとか。

それ以来、村人達は雨上がりの後の夕刻に、男山の山麓から頂にかけて狐火がかかる事を
首を長くして待ったと言われ、狐火が多く見られるその年は、山の幸は豊作に、海の幸は大漁
にと、村人達は大変幸せに暮らしたと言い伝えられています。

たかだか200年前の話に、古文書もクソもあったもんじゃないな。
って、その古文書ってどこにあるんだってーの?
市立図書館?
いや、きっと宇部商工会議所だろうな(爆)

手遅れだ

経費削減と省エネとCO2の25%削減(爆)のために、チャリで銀行まで行ってみた。
その道すがら、宇部中央商店街の現在の様子を写真に・・・・。

三炭町
三炭街商店街(ほぼ跡地の様相)
昔はアーケードもあって、賑わってたのにね。

再開発エリア
興産通り側からの銀天街入口
再開発?中途半端すぎだよ。
太陽家具跡もテナント入ってなくて空き屋だ。

アーケード入口
アーケード入口。
すでにゴーストタウンの雰囲気。

銀天街
すれ違った人数人。
昼間でも薄暗くて寂しい・・・・。

銀天プラザ
有効利用されている様子もない銀天プラザ。
イベント・・・・・ないしね。

大和跡地
アーケード側からの中央大和跡地。
ホテルを建てるという話もあったが、なんか頓挫してるという噂も。

中心部の空洞化は進んでいきます。